2019年 11月の法語・法話
To encounter a true teacher is difficult even among difficult things.
『高僧和讃』
法話
親鸞(しんらん)さまは9歳の春、出家されお坊さまになられました。それから20年、比叡山で勉学修行をされましたが、さとりを開くことができず、法然(ほうねん)さまのもとでお説教をお聴聞されたと伝わっています。
法然さまは43歳のときに、阿弥陀(あみだ)さまのお救いに遇うことを得て、お念仏のみ教えをお説きになっていたと伝わっています。
多くの歴史資料が遺されていないなかで、明確にわかっていることから思いを馳せてみましょう。
親鸞さまご自身が、「29歳の時に、念仏(ねんぶつ)以外の行を捨てて、阿弥陀さまのご本願(ほんがん)のお救いに帰依(きえ)いたしました」とのことを、 お書きになっています。
親鸞さまと法然さまが、40歳違いであることは明らかになっています。
お二人のご年齢から、少し時の流れを整理してみましょう。
法然さまが43歳から、お念仏のみ教えを説いてくださっていたとすると、当時、親鸞さまは3歳。9歳で出家され、20年の仏道修行。29歳で、師・法然さまから阿弥陀さまのお救いをお聞きし、お念仏のみ教えに遇うことができました。当時、法然さまは69歳。
法然さまがお念仏のみ教えを説いてくださって、すでに26年の月日が流れていました。それも同じ京都においでになったのに...。
み教えに遇うことがどれほど難しいことかを思わせていただく、一端です。
あの親鸞さまが20年間、すぐ近くで阿弥陀さまのお救いが説かれていても、遇うことができなかった。そのことに思いを致すと、遇うことの難しさを痛感します。
親鸞さまは「あいがたい」ことを示すのに「?(かたい)」という不可の意を表す文字を用いていらっしゃいます。
単に遇うことが難しいという意味ではないのです。「遇うことは不可能だ」、私の思いや努力で、遇うことはできないことだったとお示しになっています。
本来は決して遇うことができないはずのみ教えに、いま遇うことができた。それは私の努力によるものではない。阿弥陀さまのお手回しによってはじめて遇うことができた。
「遇うことはかたい」というこのおことばの奥には、阿弥陀さまのおかげで、遇うことができたという大きなよろこびがありました。
自らの努力で遇えるのではない。阿弥陀さまのおはたらきによって、いま遇うことができた。
これが浄土真宗・阿弥陀さまのお救いです。
葛野 洋明(かどの ひろあき)
龍谷大学(大学院)実践真宗学研究科教授。本願寺派布教使。
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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