2018年 8月の法語・法話

凡夫は すなわち われらなり

Foolish beings are indeed us!

『一念多念文意』

法話

みなさんは〝聖徳太子〟と聞いて何を連想しますか。「十七条憲法」「遣隋使」「冠位十二階」「法隆寺」などが頭に浮かんできた人は、結構歴史に興味がある人でしょう。真っ先に一万円札が浮かんできた人は、私と同じくお金がとっても好きな人でしょうね。それも、あまり若くない...。一万円札の肖像が現在の福沢諭吉に代わったのは一九八四(昭和五十九)年からなので、おおよそ四十歳以下の人は意識の中で、聖徳太子と一万円札の繋がりはあまり無いと思うのです。

さて、日本で最初に聖徳太子の肖像がお札に用いられたのは、一九三〇(昭和五)年で、それは兌換券というものでした。それから、日本紙幣の最高金額券に登場し続けた聖徳太子は、日本人の心の象徴でもあったのです。それが日本経済の急激な成長がピークに達し、バブル時代を迎えようとするさなかに、突如として聖徳太子はご引退され、福沢諭吉が台頭してきました。

それではここで、聖徳太子と福沢諭吉の違いを少しだけ比べてみましょう。ご存じのように聖徳太子は、日本最初の憲法とも言われる「十七条憲法」を発布されました。これは大雑把に言えば、現在の国家公務員法のようなものです。それは「和らかなるをもつて貴しとなし、忤ふることなきを宗となす(第一条)」。そのためには「篤く三宝を敬ふ。三宝は仏・法・僧なり(第三条)」というように、その全文が仏さまの心を中心とした平和主義にて貫かれています。そしてそれは「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫ならくのみ(第十条)」と言われるように、仏さまのみ光に照らされた聖徳太子ご自身の「私は愚かな凡夫である」という内省があったのです。

さて、それに対して福沢諭吉は『学問のすゝめ』において「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」「一身独立して一国独立する」と主張しています。

つまり聖徳太子は「お互いに自分は愚か者であると知り、だからこそ相手の心に気遣い、和の心を大切にしなさい」とおっしゃり、福沢諭吉は「人間はみな平等であり、それぞれの国民が自立してこそ国は一人立ちする。そして、国民一人ひとりが自立するには、学問でさまざまな知識を身に付け賢くなることが重要である」と訴えたのです。

現在、日本は福沢諭吉が目指したような国となりました。高学歴社会で世界第三位の経済大国。しかしそれで国民は本当に幸せになったのでしょうか。世界一五五カ国を対象とした二〇一七年版「世界幸福度報告書」において、残念ながら日本の幸福度は五十一位です。テレビや新聞では、人間同士の悲しい事件が毎日のように報道されています。

親鸞さまは聖徳太子を「日本にお出ましになられたお釈迦さま」と仰がれ敬われました。

八月の言葉「凡夫は すなわち われらなり」もう一度じっくりと味わってみてください。

田中 信勝(たなか しんしょう)

浄土真宗本願寺派布教使、仏教婦人会総連盟講師

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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