2018年 7月の法語・法話

雑毒の善をもって かの浄土に回向する これ必ず不可なり

How pointless it is to try to direct the merit of our own tainted good deeds in order to be born in the Pure Land.

「浄土文類聚鈔」『真宗聖典』四一六頁

法話

これは親鸞聖人の、『浄土文類聚鈔』にある言葉です。

「雑毒の善」というのは聞き慣れない表現ですが、「毒の雑った善」という意味です。ここでの「毒」は、煩悩を指しています。つまり「煩悩を持ったままでは、いくら善行に励んでも決して往生できない」という私たちの事実を、ずばり指摘しているのが、この言葉なのです。

ただ、「雑毒」であろうと善は善です。悪ではありません。悪事をはたらけば地獄に落ちて、善行を積んだら往生できる。こういう話なら、とても簡単です。けれど親鸞聖人は、善の質を問題にしました。これは、どうしてでしょうか?頑張って清らかな善を積めと、そう言っているのでしょうか?

しかし私たちの煩悩は、決して無くなるものではありません。自分に無いものを欲しがり、自分が嫌うものを遠ざけ、自分の意に沿わないものへ腹を立てるのが、私たちの現実です。そうであるなら、私たちが行う善も全て、「雑毒」なのではないでしょうか?

これに関して親鸞聖人は、「頭が燃えた人の喩え」を出しています。

もしも間違って、髪の毛に火がついてしまったら、どうするでしょうか?早く消さなければ、火だるまになります。他のことに気を配る余裕なんて、きっとありません。転がり回るか、水に飛び込むか、私だったら必死になって火を消しにかかるでしょう。でも、同じような必死さで「雑毒の善」に励んだとしても、決して往生できないと親鸞聖人は言うのです。それが、「これ必ず不可なり」という言葉です。

なぜなら阿弥陀仏の浄土は、煩悩の穢れを離れた涅槃の世界だからです。人間がどれだけ「雑毒」の行為を積んだとしても、そこへは決して届きません。それは汚れた油を集めて、清らかな水を得ようとするようなものだからです。つまり私たちは、焼けて死ぬしかないのです。

しかしこれは、単なる絶望を語っているわけではありません。「これ必ず不可なり」という衆生の現実は、如来によって見出された私たちのすがたでもあるからです。私たちは生まれも、才能も、境遇も、千差万別です。しかし浄土には、どれだけ大金を貯め込んでいても、いかに優れた才能を持っていても、決して往生することはできません。その点で浄土は、あらゆる人間にとって平等なのです。

そして「必ず不可」である衆生の現実を担い、浄土に往生させようとするのが、阿弥陀仏なのです。ここに、大きな転換があります。人間の自力では決して往生できない世界だからこそ、阿弥陀仏の浄土は誰にとっても、他力で帰すべき世界なのです。この点でも浄土は、あらゆる人間において平等です。

言い換えるなら私たちは、「必ず不可なり」という自覚によって、あらゆる衆生に往生を「必ず可能」にさせる平等の大悲を知ることになるのです。焼け死ぬしかないと自覚するところに、本当は清らかな水が、海のように与えられていたという事実に出会うのです。

親鸞聖人の「これ必ず不可なり」という厳しい言葉は、実はその感動を表現したものでもあったのでしょう。

青柳 英司(あおやぎ えいし)

1985年生まれ親鸞仏教センター研究員。東京教区西寳寺衆徒。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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