2018年 表紙の法語・法話
Amida Buddha is the illuminating light, expressing wisdom.
『唯信鈔文意』
法話
日本語って面白い言葉だなと思います。
たとえば「おおきくてくびにつけるしんじゅ」という文章も句読点一つで意味が変わってきます。「大きくて、首につける真珠」と「大きく、手首につける真珠」とではネックレスとブレスレットの違いになってしまいますね。他にも「あるみかんのうえにあるみかん」なども表記の違いによって「アルミ缶の上にアルミ缶」か「ある蜜柑の上に有る蜜柑」では全然意味が変わってきますね――これは少々無理矢理ぎみですが。
さて、表紙のお言葉「阿弥陀仏は 光明なり 光明は 智慧のかたちなり」も、易しそうでわかりにくい言葉ですよね。私たちは「かたち」という言葉を聞くと、長い・短い・丸い・四角いなどを連想してしまいます。だからこの言葉は非常に難しいのです。光は「輝く」「照らす」「まぶしい」などですし、智慧は「有る、無い」「深い、浅い」「働く」ものです。
それでは、このお言葉「光明は智慧のかたちなり」を、私たちはどう味わったらいいのでしょうか。
私の家族の中で一番愛されているのは、ダックスフンドのモモちゃんであることは、家族全員が承知しているところです。その理由として、
(1)悪口を言わない
(2)お世辞を言わない
(3)二枚舌を使わない
(4)下心を持っていない
(5)だから人を傷つけない...
などが挙げられます。もしモモちゃんがおしゃべりだったら、家族からこんなに愛されることはないでしょう。
たとえば、私が仕事を終え帰宅してから「あー疲れた」と発した言葉に
「なに言ってんの。疲れているのはお父さんだけじゃないわよ。留守番だって大変なんだから!」
などと言い返されたら、たまったものではありません。いつもただ黙ってシッポをふりながら、私を迎えてくれます。だから愛おしいのです。
時々そんなモモちゃんを見ていると、自分が情けなくなることがあります。他人の前では良い顔をして、家庭の中では鬼になったりになったり、本当に嘘偽りばかりの生き様です。赤鬼青鬼になっている私を、モモちゃんは優しい瞳でいつもジッと見つめているのです。
私はモモちゃんの生き方という「かたち」を通して、私のいのちの不真実性を知らされます。飼い主と思い上がっている私が、モモちゃんから自らの至らなさを教えられているのです。
じつは前出のご文の前に、親鸞さまは阿弥陀さまのことを「かたちもましまさず、いろもましまさず」とお書きになられています。色も形もない(私の智慧で認識することができない)阿弥陀さまが、光明(智慧)をもって、いろんなかたち(はたらき)になって現れてくださり、常に私に寄り添い、私を知らしめ、阿弥陀さまのお救いの確かさを知らしめてくださいます。
田中 信勝(たなか しんしょう)
浄土真宗本願寺派布教使、仏教婦人会総連盟講師
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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