2017年 12月の法語・法話
Since the Name is directed by Amida, its virtues fill the ten quarters.
三帖和讃
法話
「チクショー」。悔しがっている人が、口にするのをしばしば見かけます。漢字で書けば「畜生」。では、そもそも、どういう意味かと聞かれれば、だいたい獣や鳥をイメージしませんか。
ところで、仏教の持つ生命観では、私たちは六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)という世界をグルグルと生まれ変わり続けていると考えます。畜生界とは下から三番目で、私たち人間より下です。このことについて、『涅槃経』に興味深いお示しがあります。
慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
(『註釈版聖典』二七五頁)
つまり慚愧とは、自分の罪を人に対し、あるいは天(ここでは仏陀や菩薩の意味)に対して、こころから恥じることであり、人間か畜生かを分けるのは、人間か動物かではなく、慚愧があるかないかだというのです。大変に考えさせられるお言葉ですね。
さて今月のご和讃を全て示せば次の通りです。
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ
(『註釈版聖典』六一七頁)
「無慚無愧のこの身にて......」とは、親鸞聖人が「罪を罪とも思わず、それを恥じることもなく生きている私に、真実のこころなどない」と痛切に慚愧されているのです。しかしながら、阿弥陀さまが万徳を込めて喚びかけてくださる救いの名告り(名号)によって、功徳は十方に満ちわたっている。それが今、この私を通して出ているお念仏であると実感され、感動されているのでしょう。
親鸞聖人が、これほど厳しい言葉で自らのことを言いきられた裏には、すでに私は、阿弥陀さまによって自分の真の姿を知らされ、その自分を救う本願に出遇った、という安堵があるのです。
といいますのも、親鸞聖人には「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん」(「正像末和讃」『註釈版聖典』六一八頁)とのご和讃もあるからです。蛇蝎のように毒を持つこのこころではとても自力の修行を完遂することなどできない。しかし他力の教えに出遇わなければ、それにも気づかず無慚無愧のまま終わっていたというのです。本当に恐れるべきは、無慚無愧とも知らずに生きていた自分なのです。
さて話を戻すと、悔しい時に出る「チクショー」。調べてみると、自分にとって邪魔になった相手を罵って言うそうです。ということは、自分のことは棚に上げて、相手を無慚無愧だと罵倒していることになります。ですから、もしその言葉が私たちの口から出た時には、その言葉がそのまま、ブーメランとなって自分に戻ってきていることによく気をつけなければなりませんね。
今月のご和讃を、もう一度味わってみてください。
井上 見淳(いのうえ けんじゅん)
龍谷大学准教授
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
- ※ホームページ用に体裁を変更しております。
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