2017年 7月の法語・法話
The treasure ocean of virtues is overflowing, and for those who enter it, the defiled waters of their blind passions not separated form it.
三帖和讃
法話
住職が入院しました。とは言っても、注射が怖くて病院嫌い。「あれがある、これがある...」と仕事を理由に病院行きを拒否して何年にもなります。最近は、自分でも気になっている様子があったので、娘に誘い出してもらって、やっと病院へ行きました。十時には行ったのに、終わったのは夕方五時すぎ。四日後の連休明けに「とりあえずの処置としての手術」と宣告されて入院生活が始まりました。
少しでも、気が紛れるようにと思い、何冊かの本を持って行きましたが、手術が心配で読んでも頭に入らないと言います。ある時「夜、一人になると、ここから飛び降りて死んでしまいたい。そんな気にもなる...」と住職が言いました。注射が怖い、という人が「手術」と聞かされたのですから、その不安と怖さは、私に推し量れる域ではない、と思いつつも、思わず「死ぬつもりなら、入院しなければ良いでしょ」と笑ってしまいました。「三十~四十分で終わる手術は、大勢の人が皆やってきていることじゃないの」。そう言い放った私の言葉に「そうだな、そう言えばAさんも、Bさんも、そんなことを言っていたな」と住職。私は「あなたが執刀する訳じゃないんでしょ。やってもらうんだから、おまかせするしかないじゃない」と言うのですが、住職は「それはわかっている。だけど一人になると、どうも、次から次へと妄想が浮かんでくる。なかなか悟れない...。お釈迦様だって、お悟りの前には、妄想で苦しまれた。いろんな悪魔が出てきて惑わすんだ」と。こんなところに、お悟り
の話が出てきたので、びっくりして笑いましたが、妙に納得してしまいました。こうした生活の中で、冒頭の和 讃を読みました。
この句の前には、
本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
とあります。「自分の思いではなく、真実(本当のこと)に立つことにおいて、安心で豊かな道(人生)がひらかれる」と、親鸞聖人が教えてくださっていると感じます。ところでこの数日間を思い返してみると、自分の気持ちを表現している住職に対して、私は理屈で、その気持ちを封じ込めようとしていました。もう、いい加減に覚悟を決めて現実と向き合ったらどうなの、それが楽になる道だと、そんな気持ちでした。ところが、ふと思ったのです。あれは「ダメなあなた、そして、わかっている私」という感覚になっていたのだ...と。そして、それは、ダメな方は悪で、わかっている方は善という評価です。言い換えれば、住職は悪人、私は善人ということです。『歎異抄』の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『真宗聖典』六二七頁)の言葉が私にぶつかってきました。相手の煩悩ばかりに気をとられて、自分を問題にすることなど、全く思いもよらないことでした。またさまざまな煩悩に翻弄されている住職を助けてあげようと思っていた私は、阿弥陀如来に成り変わるつもりだったのだと思い、一人で大笑いしてしまいました。
なかなか本願に出遇えない。そんな私を、深く悲しみ、どこまでも願いをかけ続けてくださる如来のはたらき。私が気づいても、気づかなくても、その中に包み込まれていたのだと思えた時、恩徳讃の歌が心の中に響きわたりました。
靍見 美智子(つるみ みちこ)
1941年生まれ。東京教区西敎寺坊守。
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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