2017年 1月の法語・法話
The light dispels the darkness of ignorance. Thus, Amida is called "Buddha of the Light of Wisdom."
三帖和讃
法話
人は皆、何よりも「自分の思いは間違いない」という根性で生きています。しかし、日常の生活の中で、そのことはあまり意識されません。
結婚すれば夫のために、子どもが生まれれば子どものために、そして家のために。振り返れば、そうやって常に誰かのために、と思ってやってきたのではないでしょうか。 「夫のために」「子どものために」という言葉の裏には、「妻がついておりながら」と言われないよう、「あの子のお母さんは」と陰口を言われないよう、「家のため」とは、「あの奥さん、よくやっている」という誉め言葉を先取りしていたように思います。
私の行動のすべてが、実に私一人を護るための、自分の思いの裏返しでありました。
それなのに、自分の行為が、自分の思ったように評価してもらえないと、世間から孤立しているように落ち込んだり、世間が悪意に満ちているように感じたり...。
そんな時、人は癒しを求めたり、いわゆる宗教に助かる術を求めるのではないでしょうか。
親鸞聖人は、宗教とは、真実(如来)からのはたらきかけ(浄土真宗)と受けとめておられます。
このことから宗教とは、真実なるものと私との対話なのだとわかります。
真実の目からみれば、自分の思いに立つ人間(わたし)の姿が暗い闇に沈んでいるようにうつるのでしょう。
真実の方から、先に闇やみに沈しずむ人間(わたし)に「南無阿弥陀仏」という言葉になってはたらいてくださいます。
「お前はどこに立っているのだ」と。阿弥陀如来は一切の妥協をお許しになりません。
私の思いとは、思いどおりにしたい、自分を優位の位置におきたい、負けたくないというところに立っていますので、常に他と見比べ、状況次第で安心したり、被害者意識に立ったり、言うことがコロコロ変わります。
その自分でも気づかぬ一番自分の見たくない私の本音、私の正体を、阿弥陀如来の智慧の光はあますところなく照らし出します。
ああ、私は自分のまわりのこと、もの、人すべてを、自分の思いどおりに動かそうとしていたのか、と初めて自分の正体に気づいた時、南無(ごめんなさい。お粗末な、お恥ずかしい私でありました)の心がおこります。
真実に照らされて、自分の心の全体が闇であったと知らされる時、実に不思議なことに、自分が自分の思いの心から解放されるのです。
ここに、念仏の救済があります。しかし、人間は、生きている限り、自分の思いにしか立てないのです。自分でつくる闇を自分では破ることができない、無明の闇を出ることはできないのです。
その人間に光を届け、南無せしめるはたらきこそ、南無阿弥陀仏、智慧の光とお呼びするのです。
私の闇を照らし、南無の心を呼び起こされた時、この私の上に真(まこと)が宿ってくださるのです。これを信心と呼びます。
渡邉 尚子(わたなべ なおこ)
1946年生まれ。岡崎教区守綱寺坊守。
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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