2024年 11月の法語・法話

仏の救いのはたらきが 私の声となったお念仏

Our voices saying the Buddha-name nenbutsu is the Buddha’s salvific working for our benefit.

内藤知康

法話

2022年4月25日に、恩師の丘山新先生がご往生された。大学3年生時からご指導くださっていたので35年以上に及ぶお付き合いをいただいたことになる。最初は大学時代、続いて親鸞聖人の和語聖教勉強会、そして京都にいらしてからは本願寺派総合研究所にてご指導を賜った。

先生は勉強会を「最近、何か面白いことがありましたか?」という質問で始める。不用意なことを言うと、つまらなさそうにされるので要注意だ。東京で和語聖教の勉強会をしていた時には、東京教区のA先生が、いつも面白いことを言ってくれたので、研究会が盛り上がった。A先生の意見は、素朴だが核心を突く問題提起が多く、丘山先生はそういう話題を好まれた。小賢しくなるなという戒めがあったように思う。

先生自ら面白い気づきを披露されることもある。その一つを紹介したい。

「最近は、善いことをしようとする心が起きると、その心は誰かから頂戴したと思うようにしているんだ。たとえば、電車で席を譲ろうという心が生まれたら、この心は、誰からもらったかな、と考えるんだ。過去世に仏さまから頂戴したものかもと思ったりするんだ。どう思う、藤丸さん」

20年くらい前のことだ。この時、私はピンとこなかった。しかし、今思うと、非常に大事な問題提起だった(先生の言葉は、10年後に効いてきたりする)。
先日も甥っ子が、不承不承「ごめんなさい」と言いに来た。本堂の障子を破ったのが一つ目の理由。二つ目は、母親に「謝ってきなさい」と言われたからだ。これは母親に促された謝罪である。この謝罪が、誰によるものかは明確だ。

このように、現在の誰かによって直前に促された行為は「誰によるもの」かがわかりやすい。ところが、遠い過去に由来し、時間を超えて促されたものはわかりにくい。仏教には「薫習」という言葉がある。ある行為が、香りがたきしめられるように心に留まり、時間を経て影響が出るという意味だ。
こうした場合、何に影響を受けて現れ出たか気づきにくい。自分の心が起こしたくらいにしか考えないから、由来を尋ねない。親鸞聖人は、

「たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(『浄土文類聚鈔』、『註釈版聖典』484頁)

とおっしゃった。信心をいただいたなら、ずっと前にあった過去からの原因を慶びなさいというお言葉だ。

そもそも、私たちの行為で、何からも影響を受けていないものはない。では私の声として出てくるお念仏は、どこから来たのだろう。源は阿弥陀さまが菩薩として願を立てた時にあり、多くの人々の信心、念仏の声を通して私のところにやって来た。その由来を聞くのが、聞法である。由来を尋ねさせていただくと、仏さまの慈しみと念仏に生きた懐かしい方々の願いが香ってくる。

藤丸 智雄(ふじまる ともお)

武蔵野大学非常勤講師、岡山理科大学非常勤講師、前浄土真宗本願寺派総合研究所副所長、兵庫教区岡山南組源照寺住職

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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