2024年 9月の法語・法話

如来ご自身が南無阿弥陀仏となって 衆生の前にあらわれてくださった

To reveal the Truth to us, that Truth, the Tathāgata, had to become our voice saying, “Namu Amida Butsu.

寺川俊昭

法話

「千鳥」という人気漫才コンビがいる。私と同じ岡山県出身だ。
そのお二人が先日、岡山人どうしが、岡山弁で交わす挨拶について話題にしていた。大いに共感した。
街で思いがけず友人と会った時、岡山県民どうしは、どちらともなく
「なんしょんな、こりゃぁ~」
と声を掛ける。共通語訳すれば「(あなたはここで)いったい何をなさっているのですか?」という意味だ。これを、相手の顔に自分の顔を近づけ、相手をねめ回しながら言う。ちなみに「ねめ回す」とは「睨回す」という動詞で「にらみ回す」「相手の全身をにらみつける」動作を意味する。これを慌てず、ゆっくりと行う。
さて、このように挨拶された場合の対応は、初心者~上級者で三段階に分かれる。
初級「マック、行きょんじゃ(マクドナルドに行っているところです)」
中級「おめえこそ、なんしょんな(あなたこそ、何をなさっているのですか?)」
上級「いきしょんじゃ(息をしています)」
いきなり上級にチャレンジすると喧嘩になりかねないので、ご注意を。
もちろん、このやり取りは、無意味に粗野で乱暴なのではない。この乱暴さが、久しぶりでも一気に親密さを回復させる魔法となるのだ。「俺たちは、形式的な関係じゃないよな」と確認し合っているのだ。

さて、お念仏に使われる「南無」(ナマス)は、現代インドでも用いられる挨拶の言葉だ。とてもありふれた挨拶言葉で「ナマステー」と互いに声を掛け合う。仏智不思議で私には理解が及ばないが、お念仏が、普通の挨拶の言葉を用いる理由について考えてみた。
まず、日常の言葉であるということ。お念仏は、特別な場所で特別な儀礼の中でだけ用いられるものではない。日常の中にあり、いつでも、どこでも、座っていようが歩いていようが寝ていようが立っていようが、いつでも念仏。念仏は、日常の私の口からこぼれ、声の仏となってあらわれて、悲喜交々の日常を包みこむ。
次に行き来する言葉であるということ。本当に淋しい時、辛くて心が沈んでいる時に、誰かの称えた念仏が、ふと聞こえてくる。そんな時、「仏さまがいて見守ってくださっている」と、温もりが私に届く。それが、今度は私の声になって誰かに届く。声に出た念仏が、巷に溢れていればいるほど、仏さまのはたらきが多くの方々に届いていく。
三つ目。何より、仏さまが「あなた」であるということ。「ナマステー」は、まさに出会っている者どうしが掛け合う言葉だ。念仏を称えるということは、今、まさに仏さまと会っていることを確かめさせてくれる。温もりが感じられる近さで、仏さまがはたらいている―南無阿弥陀仏。

藤丸 智雄(ふじまる ともお)

武蔵野大学非常勤講師、岡山理科大学非常勤講師、前浄土真宗本願寺派総合研究所副所長、兵庫教区岡山南組源照寺住職

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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