2024年 8月の法語・法話
The struggle in life is always between one’s sense of good and that of others.
宮城 顗
法話
ひと言で「善」といいましても、私たちの暮らしの中にはたくさんの善があります。社会的道徳の善、正義に立つ善、理想を目指す善など、あまたの善が思い浮かびます。
善と善との争いはなぜ起きるのか。当たり前に受け止めてきた言葉に、今回あらためて考えるきっかけをいただきました。
私たちは様々な経験を重ね、知識を積み、個々の価値観を持ちながら暮らしています。また若い頃には、たくさんの経験を通し成長していくことが大切だと言われてきました。
ちょうど我が家には2歳になる孫がいますが、彼女を見ていると、初めての体験の中で驚き喜ぶ姿は生きる意欲を感じさせてくれます。片や大人といわれる私たちは、これまで培ってきた知識や経験のもと、いつの間にか自分の考えや是非善悪の分別を中心に物事を判断し、そのことを拠りどころとして生活をしています。
経験といっても、どこまでも私個人の狭い世界でのことですが、このことは絶対であり、こうあるべきだ、あらねばならないと頑なです。そこには自ずと人との争いも生じるのでしょう。とりわけ卑近な話では家族との関係があります。夫婦間の揉めごと、嫁姑の問題、さらには、こんなはずではなかったと戸惑う親子関係。言わずもがな、私もその渦中におります。
私事ですが、息子が住職となり3年が経ちます。彼は未だに全てを任せられずにいることへの不満を抱えています。一方、寺に嫁ぎ亡き夫と担ってきた経験を自負している私。夫が居ないことで、その思いはますます強固になります。加えて私の常識は正しいと疑わず相手にも求めていきます。こうして、いよいよ家族との確執は深まるばかりです。
このことは全て我々が抱える執着(我執)が根本問題だと教わっています。執着するとは、これまでの経験をもとに自身の考えや価値観に支配されるということです。
しかも経験に基づくものはいつも気まぐれです。気まぐれにもかかわらず自分の考えに合わないものは受け入れず、目の前の出来事に囚われていきます。そして、この事実には、なかなか私の思いでは自覚することはできません。
お念仏の道を歩まれた方が証してくださる言葉には不思議な力があります。その言葉によって自身を振り返るきっかけをいただきます。しかし、それは単なる反省でしかなく、どこまでも私の思いに留まり、素直に応じることは容易ではありません。
善し悪しの観念から離れられないからこそ、言葉との出遇いは現実の身に立ち返る大切なことなのかもしれません。
大中臣 千恵美(おおなかとみ ちえみ)
1959年生まれ。富山教区第12組勝福寺前坊守
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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