2022年 12月の法語・法話
Saying “I gratefully receive this meal” with hands together in gasshō is an expression of having been moved by the gift of life.
米沢英雄
法話
因幡の源左として知られる妙好人足利源左さんのお手継ぎ、鳥取県青谷の願正寺さまには、3年に1度ほどご縁を頂きます。2021年の春彼岸が、最近のご縁でした。 源左さんの言葉は、若いころから何度も味わい、紹介もしてきました。それでも法語の味わいというのは、繰り返してもその都度、新しい発見があります。この時は願正寺さまに額装して掛けてあった言葉、「めしよりうまいもんが、あるかいや」について、お話しさせていただきました。
炊き込みご飯はおいしいものです。季節、季節。栗ご飯や松茸ご飯、筍ご飯など。その時期に採れる恵みをご飯でいただくほど、おいしいものはありません。私も大好きです。でも、毎日同じ炊き込みご飯は無理です。よくたとえでお話しするのですが、どれほど高級な料亭、それこそ何万円もするような割烹の料理でも、2日続けては嫌です。それはなぜでしょう。
家でのご飯。そこでは食べたい量、とろろ昆布やお漬け物、梅干し、なんでも自分の好みに合わせられます。多かったら減らせます。すべてが自分専用なのです。 外でいただく場合はそうはいきません。量、味、好み、多少なりとも向こうに合わせなければなりません。普段味わえないような美味であっても、そこには、幾分かの無理が生じているのです。
「めしよりうまいもんが、あるかいや」
ご飯ほどおいしいものはない。これはいうまでもなく、白いご飯に違いありません。
私も子どものころ、母の実家で、ご飯と味噌汁、お漬け物だけの朝ご飯を、何日も続けていただきました。毎日変わりません。茄子のお漬け物のおいしかったこと。そして、毎日食べても絶対に飽きのこない食べ物、それが白いご飯であったのです。
「めしよりうまいもんが、あるかいや」
むろんこの言葉はたとえです。
私を育ててあってくださるご飯。自分専用。飽きることがない。向こうに合わせる必要がない(向こうが、私に合わせてくださってあるからです)。源左さんはお念仏の味わいを、全く異なる「めし」によって、このように表現されたのです。異なるもので別の味わいを表す、このような比喩を暗喩といいます。
毎日毎日、自分専用のお念仏を申して手を合わす日々。充実した人生であったといえるでしょう。
山本 攝叡(やまもと せつえい)
浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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