2019年 8月の法語・法話

涅槃の真因は ただ信心をもってす

The true cause of attaining nirvana is the entrusting heart alone.

『顕浄土真実教行証文類』「信巻」

法話

「涅槃」は寂滅(じゃくめつ)とか寂静(じゃくじょう)と訳され、煩悩(ぼんのう)の火が完全に消されたような、仏のさとりの境地をあらわす法語であります。いわば、仏道をこころざす者の究極の目標としての世界と言えます。厳しい修行をとおして、煩悩を断じ尽くした末に得られるべき境地として伝えられてきました。

ところが、この宗祖(しゅうそ)のお言葉は、そのような仏のさとりの境地ともいえる涅槃寂静の世界に到る真(まこと)の因となるのは、ただ信心一つであると言われるのです。

今、このお言葉に重ねて思われるのは、私たちが毎日のおつとめとして親しんでいる「正信偈(しょうしんげ)」の中の、「能発一念(のうほついちねん)喜愛心(きあいしん) 不断煩悩(ふだんぼんのう)得涅槃(とくねはん)」の文です。

蓮如上人(れんにょしょうにん)は『正信偈大意(しょうしんげたいい)』でこの文を、

「「能発一念喜愛心」というは、一念(いちねん)歓喜(かんぎ)の信心を申すなり。「不断煩悩得涅槃」というは、不思議の願力(がんりき)なるがゆえに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはついに涅槃にいたるべき分(ぶん)にさだめましますものなり」。(真宗聖典751頁)

と釈されています。

念仏(ねんぶつ)申す生活の中に開かれてきた思いもよらぬ信心、その感動を「能発一念喜愛の心」と言われ、そしてその内容が、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という世界でした。

煩悩の心を断じ尽くしてこそ得られるのが涅槃の境地であると思っていたが、あにはからんや、そうではなかった。煩悩の身が何ともならぬこの身の事実への悲嘆と慙愧の心とともに、その凡夫(ぼんぶ)の身を丸ごと受けとめていける世界があったのだ、という驚きであります。「涅槃にいたるべき分」というのは、いただくはずのない涅槃にいたるべき身を、念仏申す生活の中に賜るのだという、そのような感動を、この「正信偈」の文はあらわしているのでしょう。

亡くなられて早十年になります宮城(みやぎ) 顗(しずか)先生は「不断煩悩」を「不得断(ふとくだん)」とよまれました。この「不得断」に、煩悩を断じ得ざる悲しみがあるのだと。この悲しみ、わが身への悲嘆の心をとおして、その身を静かに受けとめて生きていける世界を、念仏の信心に賜るのであると教えてくださいます。

超高齢の身をかかえて「自分の体ひとつが何ともならない」と、嘆き愚痴をこぼしながら、その身を懸命に受けとめようとしている義母の姿に日々接しながら、何かこの「涅槃の真因は、ただ信心をもってす」の文、そして「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」の文が思われてきます。

この苦悩多き人生、煩悩の尽きることのなき身をかかえて、その身の事実から逃げることなく、しみじみと受けとめていける人生が、 称名(しょうみょう)念仏(ねんぶつ)の道としてすでに開かれていた、その確かさと驚きを、この法語は教えてくださっているのではないでしょうか。

黒田 進(くろだ すすむ)

1944年生まれ。元修練道場長。長浜教区満立寺前住職。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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