2018年 5月の法語・法話
Once realizing the power of the Tath?gata’s Primal Vow, nobody can pass it by untouched.
「入出二門偈頌文」『真宗聖典』四六一頁
法話
今年の一月、自坊の報恩講を終えた次の日に未明、私の父が今生を終えた。
昭和ひと桁生まれ、二十四時間戦えますかを体現し、戦後日本の復興と経済成長を支えた人だった。ともするとエコノミックアニマルと揶揄されることもある世代。
昨日より今日、今日より明日と、常に前を向き努力せよと語り、自らも精進を怠らなかった。朝は子どもよりも早く起き出勤、夜は子どもたちが寝てから帰宅、たまに夜中に目が覚めると、机に向かう父の姿があった。努力は必ず報われると信じて疑わない人だった。
だからこそ、身体の衰えを自覚することを恐れていた。だんだん頑固になり、医者に行ったほうがよいという周囲の言葉に耳をかさず、病に倒れる前日まで仕事を続けていた。
体中に管を繋がれ、動くこともままならない自分の姿がさぞかし情けなかっただろうと思う。集中治療室の病床で、何度も体を起こそうとしていた。
主治医に、覚悟はしていてくださいね、と告げられ、その時を待つようになったある日、夢うつつのことが多い父がふと目を覚まし、私と目があった。久しぶりに表情のはっきりした父を前に、話したいこと、訊ねたいことは山ほどあった。
でも、それを問うても、父にはもう答えるだけの体力は残っていない。
私は言葉に迷い、「お父さん、大丈夫、阿弥陀様がついていてくれるよ、南無阿弥陀仏だよ」と話しかけた。
すると父は、ちょっとくしゃっとした表情をして、目をつぶり、また眠りについてしまった。亡くなる二日前のことだった。
父を看取り、見送った後になっても、その時のことが気になっていた。
あんなことを言ってしまってよかったのか。前進することを是とする父にとって、阿弥陀様をたのむことは、敗北宣言ではなかったのかと。
そんなことを考えている時に、ふと思ったのが、御文の
「ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬるわれらごときのいたずらものを、たすけんとちかいまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて...」
(一帖三通、真宗聖典七六二頁)
という一節だった。商売も会社勤めも、いわば「あさましき罪業」だとし、そんな罪業に毎日追い回されている我々のような愚か者を助けようとしてくださるのが阿弥陀の本願なのだと。
思えば父は、忙しいとぼやきながらも、お寺参りが好きだった。
宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌法要の年に、念願かなって本山の報恩講に参詣できたことを喜んでいた。そんな父を阿弥陀様が見捨てるわけがない。私が余計な心配をしなくても、人生を精一杯に駆け抜けた父のために阿弥陀様の本願はあったのだ。
親鸞聖人は
かの如来の本願力を観ずるに 凡愚遇うて空しく過ぐる者なし。
と世親菩薩のおしごとを讃嘆しておられる。
阿弥陀様の本願念仏があるからこそ、それに出遇った者は迷いながらも生きていける。凡愚のわが身を安心して引き受けていけるのだろう。
廣田 万里子(ひろた まりこ)
1960年生まれ。名古屋教区善福寺坊守。
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
- ※ホームページ用に体裁を変更しております。
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