2017年 4月の法語・法話
Those who hear the Buddha's Name attain forever the stage of nonretrogression.
三帖和讃
法話
私は一週間のうち、半分を京都で単身赴任、半分を福岡で家族と過ごしています。金曜日の夜に帰省すると、子どもがわあっと寄ってきてくれます。私は普段、妻にまかせきりの子どもの教育を、せめてこの週末くらいは、と意気込んでやってみるのですが、優しく言うのも初めのうちで、疲れてくると、いったい叱っているのか、単に怒っているだけなのか、自分でもわからなくなってきます。先日も、やり過ぎてしまったようで、とくに私についてまわる、四歳の三男にさえ「お父さん、もう京都に戻っていいよ」と言われてしまいました。
そんな私が、子どもに何を言っているのかというと、大半は「早くやりなさい」ばかりです。しかしながら、ふと、私はあんなに急がせていったい何をさせたいのだろうと思うと、答えはなかったりします。そんな時、『無量寿経』の「世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ(世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっている)」(『註釈版聖典』五四頁)との言葉を思い出して、その的確さが可笑しくもある一方、親としての未熟さにはため息がでます。本当に急ぐべきことは他にあるのです。
今月のご和讃をすべて示せば、次の通りです。
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
(『註釈版聖典』五六一頁)
この「大千世界にみてらん火」とは、お釈迦さまが「一切は燃えさかっている、煩悩の炎によって」とおっしゃったように、それぞれが煩悩の炎を燃やし、いろんなものに執着して生きているそのことです。言われてみれば、大半は「不急の事」に過ぎません。
私たちは走りまわって生きていますが、なんで走っているのか考えてみると、「みんなが走っているから走っている」という何とも間の抜けた答えしか出てこなかったりします。お金や名誉や権力を、燃えさかるこころで追いかけて、肝心の大切なものは見落としながら、人を傷つけ蹴落として、せっせと走り続けます。
そして、それなりに得られたものがあったとしても、いよいよ人生の最終局面に達した時、そうして得てきたものは、果たしてその時に至ってもなお、本当に私たちを支えてくれるのでしょうか。我が人生とは何だったんだろうかと、むなしさにやりきれなくなるということはないでしょうか。
人として、この境界に生まれた以上、「不急の事」すべてを差し置き、出会わなくてはならないものがあります。親鸞聖人はそれを「火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(『註釈版聖典』八五四頁)とお示しくださいました。
このお念仏という「まこと」の教えは、「仏の御名をきくひと」を育てていきます。この人こそ、もはや迷う人生に退かない「不退にかなふ」人と言います。
今月のご和讃を、もう一度味わってみてください。
井上 見淳(いのうえ けんじゅん)
龍谷大学准教授
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
- ※ホームページ用に体裁を変更しております。
- ※本文の著作権は作者本人に属しております。