1985(昭和60)年の法語
表紙 |
生かさるるいのち尊しけさの春 |
飛騨 中村久子 |
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1月 | とにかくお慈悲の力はぬくいでなあ |
因幡 足利源左 |
2月 |
仏と話をすることは称名念仏これが話よ |
石見 浅原才一 |
3月 |
我身わるいはどこから知れたおじひの光明に照らされて |
石見 小川仲造 |
4月 |
ひとさんに堪忍してもらってばかりおりますだがや |
因幡 足利源左 |
5月 |
世界虚空がみなほとけわしもそのなか なむあみだぶつ |
石見 浅原才一 |
6月 |
信を得るというはハイというまでのことでありますげな |
三河 鈴木その |
7月 |
現世祈りやもの忌せまい弥陀の光の中じゃもの |
伊賀 三左衛門 |
8月 |
迷う道は広いが助かる道はただ一つしかないのや |
和泉 物種吉兵衛 |
9月 |
罪が深いでお慈悲が深いそこでご恩がありがたい |
石見 小川仲造 |
10月 |
ひまがないとは気がないことよ参る気がありゃひまもある |
肥後 平島キク |
11月 |
他力他力と思うていたが思う心がみな自力 |
加賀 森 ひな |
12月 |
浮世も邪見わたしも邪見法の鏡を見りゃわかる |
石見 浅原才一 |