親鸞聖人を訪ねて

八五〇年の時を超えて
各地に息づく
親鸞聖人のご足跡をたどる

京都に生まれ、越後へ流罪となり、常陸で布教し、再び京都へと、旅の多いご生涯を送られた親鸞聖人。
法然上人との出遇いにより他力本願の教えに目覚め、
越後へ流されてからは非僧非俗を宣言して民衆に寄り添い、常陸の地では20年にもわたり教えを広めました。
その足跡には、親鸞聖人のみ教えが、今もなお息づいています。

親鸞聖人

親鸞聖人(1173 - 1263)

親鸞聖人とは、
日本最大宗派である
浄土真宗の宗祖です

親鸞聖人は、今からおよそ850年前、平安時代末期の京都に生まれ、鎌倉時代中期にかけて90年のご生涯をおくられた方です。
厳しい修行こそが極楽浄土への道と言われた時代に、「どのような人であれ念仏をとなえれば阿弥陀仏によって救われる」という他力本願の教えを説かれ、多くの人々に救いの道を示されました。

京都(1173-1207年)

迷いと苦しみの中、
生涯の師
法然上人と出遇う

親鸞聖人は9歳で得度し、比叡山で20年間厳しい修行を積まれましたが、迷いは晴れず、下山して聖徳太子ゆかりの六角堂に百日の参籠をされます。この時、夢のお告げに導かれ、法然上人に出遇われます。
法然上人の教えは、「極楽往生は自らの力で行うものではなく、阿弥陀仏の力によってかなえられるものである、阿弥陀仏が念仏を称えるすべての人々をお救いくださる」と説く「他力本願」の教えでした。
親鸞聖人はこの教えに深く共感され、生涯にわたり「法然上人によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めていくことに力を注がれます。


越前-越後(1207-1214年)

流罪となって
越後へ

知識のない者、修行をすることができない者でも、一心に念仏を唱えればあまねく救われるとする専修念仏の教えは、多くの人々に救いの道を示しましたが、一方で、当時の仏教界においては異端視され、弾圧を受けることとなります。
ついには朝廷への訴えによって、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと流罪になります。しかし流罪になった後も親鸞聖人は、みずからを「非僧非俗」(僧ではなく、俗人でもない)として、民衆に寄り添い、他力本願の教えを伝え続けられました。


信濃-常陸(1214-1232年)

常陸へ旅立ち、
関東一円に
教えを広める

流罪が解かれた親鸞聖人は常陸(茨城)へ移り、20年にわたって布教されます。
親鸞聖人は自坊を持たず、各地に簡素な念仏道場を設けて教えを説かれました。そのもとには多くの人々が集い、専修念仏の教えは関東一円に広がり、二十四輩と呼ばれる高弟たちも生まれました。
他力本願の教えを大系的に著したのが『教行信証』で、浄土真宗の根本聖典とされており、この書が完成した日は立教開宗の日とされています。


近江-京都(1232-1263年)

京都へ戻り、
執筆活動に
心血を注ぐ

晩年の親鸞聖人は京都へ戻り、執筆に心血を注がれました。
また、親鸞聖人のお言葉は、弟子の唯円が記したとされる『歎異抄』に伝えられ、宗派の垣根を越えて、今も多くの人々に影響を与えています。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(悪人こそが救われる)の一文は「悪人正機」の思想としてあまりにも有名です。
親鸞聖人は80歳を過ぎてなお筆を取り続け、御年90歳にて、仏の本願に生き抜かれたそのご生涯を閉じ、ご往生されました。